デーリー東北にも掲載されましたので地元の皆さんはご存じのことと思いますが、
公益社団法人俳人協会理事・泉俳句会主宰の藤本美和子様、俳人協会評議員・泉俳句会編集長の陽美保子様、俳人協会評議員・出航主宰沖副主宰の森岡正作様、俳人協会評議員・青山副主宰の井越芳子様、俳人協会理事・パピルス俳句会代表坂本宮尾様、俳人協会幹事の大西朋様、俳人協会幹事菊田一平様、の七名がえんぶり見物にいのらっしゃいました。
詳細は6月号の俳句四季に掲載されております。ここでは写真と 

藤本美和子様が「泉」4月号に、坂本宮尾様がパピルス夏号に書いてくださったものを引用させていただきました。


2月16日は早く到着した方々を種差海岸、蕪島神社等
17日は新羅神社奉納えんぶり、一斉摺り、根城城址、お庭えんぶり
18日是川縄文館、淋代海岸、寺山修司記念館、そして超結社10名で10句出しの句会と忙しいスケジュールでした。

この様子は俳句四季6月号に掲載されております。



「泉」編集ノート

 「たかんな」の主宰吉田千嘉子さんの肝煎で八戸えんぶりを初めて見学した。 「えんぶり」が開催されるのは毎年二月十七、十八日。 「小正月に行われていた豊作を祈る田植え踊りの行事」
(『角川大歳時記』解説は渡辺誠一郎氏)である。
「朳」とも書くのは、「朳」という田をならす農具を持って摺る(踊る)ことに由来する、という。
十七日早朝七時から行われる長者山新羅神社での奉納儀式、その後は街中を練り歩く「一斉摺り」、夜は更上閣で行われる「お庭えんぶり」等々。八百年の伝統を持つ「えんぶり」の熱気を十二分に堪能した。
今は三十組ほどの「朳組」だが、かつて百組以上あったという。とは言え豊年を祈る心は今も昔も同じだ。机を摺る音、太鼓笛、手平鉦などのお囃し。 それらが春を呼びこむ楽として北国の空に響く。伝統の床しさが思われた時間だった。


 えんぶり

 藤本美和子

火を焚いて土を鎮める春祭
雪吊の松のかたへの篝籠
舞火の火の粉に仕ふ朳舞
えんぶりや贔屓の太夫ひとりゐる
えんぶりの子どもの爪子脛巾かな
少年の四肢かくも反る雪解光
八仙といふ酒の銘春残し
手平鉦打つ白鳥の帰るころ
春寒料峭淋代の虚貝
淋代の浜より戻る朝寝かな

「泉」四月号(藤本美和子主宰) 


木の芽張る

陽  美保子

水洟をすすり八戸鳥瞰図
荒東風に乗って来るは朳笛
星空へ火の粉が飛んで朳舞
雪解の一気にすすむ恵比寿舞
人の世に笛や太鼓や木の芽張る

 「泉」五月号(藤本美和子主宰) 


 
春を迎える神事――八戸えんぶり

 坂本宮尾 

八戸駅で東北新幹線を下りるともう暗かったが、あたりにほとんど雪がなかった。「たかんな」誌の吉田千嘉子主宰から、えんぶり吟行のお誘いをいただいたのは秋のこと。二つ返事で参加をお願いした。しかし例年になく寒く、各地で大雪というニュースを見るにつけ粗忽な私は、雪で滑って骨折して迷惑を掛けたらどうしようか、と不安になった。二月十六日夕刻、パピルス例会後に「はやぶさ」に乗ったが、車窓から見る仙台、盛岡の街は雪景色だった。さらに北の八戸はどうなるだろうか、と心配していたのである。タクシーの運転手さんが、地形の関係から八戸は雪が少ない所だと教えてくれた。
えんぶりは翌十七日朝七時から始まる。長者山に建つ新(しん)羅(ら)神社の石段を登っていくと、早い奉納の順番を取ろうと徹夜していたえんぶり衆の焚き火の煙が漂ってくる。えんぶり囃子も聞こえて、祝祭の気分が高まる。
えんぶり、あるいはえぶりは、土を起こす農具「朳(えぶり)」に由来するという。そのため「えぶり摺(す)る」という独特の言い方をするようだ。「摺る」は舞うの意味らしい。えんぶりのリーダーである大夫たちが神社の前で御祓いを受けて玉串を捧げて豊年を祈り、耕しや種蒔きなど農作業を模した舞を奉納する。八百年余の歴史をもつこの神事には、厳しい冬に耐えた東北地方の人びとが、春を待ちわび、豊年を祈る気持ちが込められている。
社殿の脇に立ってえんぶり奉納の開始を待ちながら、十数年前のちょうど同じ時期に浜松市最北部、水(みさ)窪(くぼ)の観音堂で拝観した「西(にし)浦(うれ)の田楽」の景が甦ってきた。水窪は遠州と信州の国境に位置する。現在は静かな山間の集落であるが、かつては塩を運搬する「塩の道」、秋葉街道の宿場町として栄えた。奈良時代にここを訪れた行基が観音菩薩像と面を作ったところから西浦の田楽が始まったとされる。以来千三百年、中世の雰囲気を保ちながら、五穀豊穣、無病息災を願う神事として伝えられてきた。旧暦一月十八日の月の出から日の出まで、凍て付く寒さのなか夜を徹して執り行われる。月光と焚き火に照らされた境内に結界が張られ、神々をお迎えして舞が始まる。
西浦の田楽は世襲制で、能衆と呼ばれる村落の男子が代々役割を担ってきた。先祖から伝わる古い面を付けた能衆が、地能、はね能など、屈んだり跳ねたりしながら素朴な舞を夜通し舞う。クライマックスのお舟渡しでは境内に渡した二本の綱を伝わって、松明を載せた小舟が進み、大きな柱松明に点火する。農作業の様子以外にも、歴史に取材した屋島などの演目も含まれる。五十番ほど能を舞ううちに空が白み始め、「鎮(しず)め」と称される演目で、お迎えした神々にお帰りいただく。祭主を務める別当が春の到来を山々に告げる。狭い境内で行われるこの神事は、宗教的な色彩が濃い。あたりは松明や焚き火以外は深い闇に包まれ、荘厳な雰囲気がある。
男子だけが担う西浦の田楽とは対照的に、八戸えんぶりは幼い子どもから老人まで、街中の男女が総出で参加して、賑やかである。早朝の新羅神社の境内には揃いの法被姿のえんぶり衆がいくつかの組に分かれて、豊年祭の幟を立てて集まっている。囃子方は横笛を吹き、木枠に嵌めた太鼓を一人が背に担ぎ、その後ろに太鼓を叩く人が続く。手(て)平(びら)鉦(がね)がリズムを刻み、民謡の宝庫と呼ばれるみちのくだけに、唄も見事である。
神前で大夫が頭を大きく振りながら勇壮なえんぶりを奉納した後は、一行は山を下り、街の中心部を揃ってパレードする「一斉摺り」がくり広げられる。学校にはえんぶりのクラブがあって、町の保存会から指導者が派遣され、舞や楽器を練習しているという。そのようにして自然にえんぶりの伝統は受け継がれていく。
えんぶりで目を惹くのは、大夫がかぶる大きな烏帽子である。これは農耕馬を象ったもので、烏帽子の鬣にあたる部分が田の神様の依代となる。一心に舞っているうちに神が降臨されるということだ。牡丹の花がついていたり、動きに合わせて揺れる長い房が下がっていたり、鶴、亀などのめでたい図柄で飾られて華やかである。和紙を貼り重ねて、漆を塗ったもので、ピカピカと艶がよく美しい。手に持たせてもらうとけっこうな重さがある。これを被って舞うのは重労働に違いない。 
農業技術が進歩し、人の手や馬による耕作は過去のものになったが、八戸でも西浦でも、長い歴史をもつ春を迎える行事が現在も継承されている。一年で一番昼が短い冬至が過ぎてから、一月、二月と寒さは本格的になる。しかし、寒さのなかでも日に日に昼が長くなる。それが厳寒期の季語「日脚伸ぶ」の本意である。暗い冬が去り、万物が芽吹く春を迎える嬉しさは、今も昔も変わらない。春の到来を仲間とともに踊り、酒を酌んで喜んできたのだ。お相伴にあずかった私も、春を迎える新鮮な喜びに充たされた。今も耳底でえんぶりのお囃子が響き、紅いほっぺたの愛らしい子どもたちが舞う姿が目に浮かぶ。 
 

世の人すべてにそれぞれが情熱を持って取り組める何かがあると思います。 私の場合は幼いころに工芸の道を究めようと決心してから、一所懸命に研鑽を積んできました。(一部抜粋)
 


八戸えんぶり 坂本宮尾 

笛ひびく春東雲の長者山 

磴のぼる朳(えぶり)囃子(ばやし)に急かされて 

田起しの腿高々と朳摺る 腿正字に 

えんぶりの双子が競ふ恵比寿舞 

雪靴を脱ぎ毛氈に招かるる 

お座敷の開け放たれて庭えぶり 

もてなしの旅の一夜の朳唄 

えんぶりや紅あざやかな砂糖菓子 

呼びかけてみたき淋代春の雲 

淋代や春の地吹雪縦横に 

淋代の浜引き締まる雪解風 

 

 

パピルス 2025夏号より 




えんぶり吟行句会 2月18日より

 森岡正作

何時しかに朳太鼓に身を委ぬ

淋代の浜に果てたる北寄貝

青春の修司に会へり春氷



 菊田一平

二番三番来て朳のいま佳境

風に鳴る庭えんぶりの松の枝

奥の間の奥に雪隠春浅し



 井越芳子

風の出てお庭えんぶりはじまりぬ

朳摺る大きな烏帽子傾けて

地吹雪を来て淋代の海の色



 大西朋

宿木を透かす朝日や朳待つ

雨水かな眠り解かれし土偶の目

貝殻を手に手に戻る雨水かな

淋代海岸