私の出会ったあの人
ブリット・オールクロフト
魔女のおもてなし
八 木 仁
皆さんは「機関車トーマス」と言うキャラクターをご存じだろうか?
そう、あの顔の付いた蒸気機関車達が繰り広げる物語である。英国人のウォルバートオードリーと言う牧師が闘病中の息子を慰めようと創作した絵本のキャラクターなのである。
私がグローバルライツと言う、ソニーグループの知的財産権を扱う会社の代表を務めていた時に、当時トーマス権利を保有していたブリットオールクロフト社がロンドン市場に上場することになり安定株主を求めているという情報が入って来た。私は迷わず同社の株式を7%取得する手配をした。これにより世界中のトーマス関連売上の7%分のロイヤリティがソニーに入って来ることになったのである。
トーマスと言うのは不思議なキャラクターで、そもそも3~6才の男子に圧倒的人気があり、小学校に上がる頃から子供達の興味はヒーロー物に移って行く。但し未就学児童は順次入れ替わる訳であるから乗り物に興味を持つ子供達は不変であり、トーマスは毎年安定した売上をキープすることになる。
ソニーCPが権利を持っているキャラクターの中で、毎年「スヌーピー」に次ぐ位置をキープしている所以である。さて、数ケ月後私は株主としてブリットオールクロフト社を訪れた。ロンドンから電車で一時間弱、英国の南端ブライトンの港町にその会社は在った。
迎えてくれたブリットオールクロフトさんと言う女社長は、白髪の毛をモシャモシャに伸ばしてまるで「白雪姫」に出てくる魔法使いのお婆さん。ソニーが株主になったことを喜び、ランチを設営してあるということで車で十五分程のマナーハウスに案内してくれた。
英のマナーハウスと言うのは、フランスのシャトーホテルやスペインのパラドールのように、昔の貴族の館や僧院を改装してホテル兼レストランとして営業している処を言う。ブライトンのマナーハウスは、自然豊かな緑に囲まれ美味しいジビエ料理をご馳走してくれる素敵な処であった。スッカリ気を良くした私は予て秘めていた懸案事項を魔女に相談してみた。曰く、今回ソニーは3Ⅾ映像会社のアイマックス社を買収して東京で3Ⅾ映画館を運営している。そこで既存の作品では無く新作のオリジナル映像を創りたいと想っているのだが何か良いアイディアは?と投げ掛けてみたのだ。魔女は暫く考えた後、「MrYAGI、閉園後の動物園って観てみたくない?動物達は何をして遊んでいると想う?」私は素晴らしいアイディアだと想った。一緒に創ろう!と魔女と握手をした。ところが動物のキャラクターで創り前に「ピングー」で試作してみようということで、ソニーのカメラで色々工夫してみたがどうも満足出来る立体映像にならない。私は泣く泣く計画を断念した。
数年後ディズニーが、動物ではなくおもちゃが家族の寝静まった後活躍する「トイストーリー」で大ヒット。魔女のアイディアは秀逸だったのに逃がした魚は大きかったと教えられたのである。
私が出会ったあの人
私の出会ったあの人
酒井政利と原田知世
生花白薔薇ドレスのポトリ
八 木 仁
世に「色男金と女はなかりけり」と申しますが、どうなんでしょうかねぇ?
いえね。これから話す男は、女性にモテたことは間違いございません。そして金も稼いでおりました。はい、彼の名は酒井政利と申します。ソニー、いえ業界を代表するプロデューサー(以下P)でした。なにせ《阿久悠筒美(京平)は無理でもせめてなりたや酒井政利》という川柳が囁かれていた位ですから、、、、、、、えっ?あなた、彼の実績を挙げろとおっしゃるんですか?旧コロンビア時代の実績を引っ提げてCBSソニー創業時に転籍。その後はフォーリーブス、南沙織、郷ひろみ、山口百恵、久保田早紀等の育成、また他社で売れなかった歌手を移籍させてのヒット作りで、朝丘雪路の「雨がやんだら」金井克子の「他人の関係」●内田あかりの「浮世絵の街」大信田礼子の「同棲時代」ジュディー・オングの「魅せられて」と真にSMEの黎明期を支えてくれた立役者なのですよ。
時は流れるものでして、俗に十年一昔と申しますからもう四昔位になりますでしょうか。酒井Pから呼び出しを受けました。彼の部屋に行きますと、「いま角川から原田知世を移籍させようとしている。先方からは最後にソニーの宣伝・営業体制につき聴いた上で判断したい。誰か然るべき人に説明させて欲しいと要望された。その役を八木さんに頼みたいので角川を納得させてきて欲しい」とのこと。私が指定された日時に角川本社に伺うと、案内さ
れた大会議室に角川春樹社長を真ん中に幹部社員が三十名程顔を揃え、流石に私も足が竦む想いでしたよ。その後直ぐに原田の移籍が決まり、SMEの社長、営業部長、酒井P、私で、当時ソニーが経営していた銀座マキシムに角川春樹ご夫妻をお招きして懇親食事会を催しました。そりゃあなた、当事は「たかんな」を全く知りませんでしたので俳句の話はしませんでしたよ。
原田知世は、移籍第一弾「天国にいちばん近い島」で映画・主題歌共にヒット存在感を示してくれました。翌昭和六十年、再度酒井Pに呼ばれた私は、知世がNHK紅白への出場が決まったので酒井Pが衣装をプレゼントしようと考えている。誰もが驚く衣装にしたいけど私に良いアイディアが無いか相談を受けたのです。私は即答で「生花の白薔薇で作ったドレスはどうでしょう!」と提案していました。酒井Pは即座にこの案を採用、全てを私に任せてくれたのです。実は私にはレリアン経営の「ローズギャラリー」と言う薔薇専門店をプロデュースする津志本貢氏という友人が居て、彼に依頼しようと考えたのです。十二月三十一日、白薔薇のドレスを纏った原田知世がNHKの大階段を下りて来た時、薔薇が一輪ポトリと落ちました。これにより、場内が一瞬ザワついたのを私は忘れることが出来ません。観客が知世の衣装が造花では無く生花であると悟った瞬間でした。昭和六十二年、原田知世は映画「私をスキーに連れてって」でアーティストとして大ブレイクを果たし、大輪を咲かせたのです。
私が出会ったあの人
伍代夏子
夏子はサラリと、あや子は真赤に
聖子はノリノリ、、、、、、、
八 木 仁
まあまあ八木さん、お久し振りでございます。良くお越し下さいました。
さあ、お上がりになって下さい。
いえいえ、それ程の豪邸ではございませんのよ。芸能界には〇〇御殿と言 われるような超大豪邸がいくつかございますものね。今日は生憎主人(杉良太郎)が出掛けておりまして、八木さんがお見えになると申しましたら、「 呉々も宜しくお伝えしてくれ」とのこ とでした。何ですか主人も以前大変お世話になったそうでございますね。これ主人の好物の上野『うさぎや』さんのどら焼きです。どうぞ召し上がってみて下さい。あら、八木さん糖尿病なのですか?それはいけませんね。失礼いたしました。ではこちらの麻布十番『豆源』さんのお煎餅でしたらようございますでしょ。
はいはい、私は相変わらず元気にいたしております。私がお世話になったのは八木さんがソニーの化粧品部門の責任者をなさっていらっしゃる時でしたね。私のあと藤あや子ちゃんもソニ―からデビューして、業界では《ソニ―の美人演歌》などと持て囃された時でした。
そう言えば、八木さんが仕込んで下さったんですよね。「ビューティービジネス」と言う化粧品業界誌のインタビュー。あの雑誌社の社長、お名前何でしたしたっけ?そうそう、田中仁社長(元たかんな幹部)でした。面白い方でしたね。インタビュー時はそれ程でないのですが、それが終わって会食の時間になると俄然元気になられて、キワどいエッチなお話をなさるんですもの。それがリアルで微に入り細に渡り、、、、、、。はい、私は何とかサラリと切り
返して凌ぎましたが、そうですか、あや子ちゃんは真っ赤な顔して俯いてい
たのですね。えっ、あのエッチなお話に一番乗っていたのは聖子(松田聖子)ちゃんんだったんですか?「それで、 それで?、、、、」と先を促していたと、、、、、、、
彼女やるもんですねぇ。
まあヤダ、私が杉の何処に惚れたかですって?そんな野暮なことお聴きにならないで下さいな。 はい、その通りです。杉と私の婚約発表の時、雛壇の机の下で私達は確か に手を繋ぎ合っておりました。通常の婚約会見の時より二人の席が近かったから、お気づきになられたのですか? サスガ八木さん、鋭いですね。 杉と相談して“八木さんはいずれソニーの中心になられる方“だからということで結婚式にもご招待をさせて頂きました。でも当日欠席でしたよね。 いえいえ、決して責めている訳ではありません。大切なご用事があったのでしたら仕方がありませんもの。でも杉も私もとっても残念だったのですよ。 あらあらあら八木さん、もうお帰りです か?折角お越し頂いたのに大したおもてなしもできず申し訳ありませんでした。はいはい、主人には良く伝えておきます。今度は是非、杉も居る時に遊びにいらして下さいね。どうかお気をつけてお帰り下さい。ご機嫌よう。
私が出会ったあの人
杉良太郎
男気溢れる気遣いの人
八 木 仁
昭和52年頃だったと想う。SMEの宣伝部長から電話をもらった。「杉良太郎さんが鈴鹿の女性ドライバーを応援する為、レースの賞品に車を提供したいと言っている。音楽では利用しようが無いので、化粧品の方で生かして欲しい。費用はこちらで負担する」とのこと。私が化粧品部門の責任者をしている時であった。聞けば日本の女性レースドライバーは恵まれない境遇に置かれていて、車の購入、メンテ、レース場への運搬等・・・全て自己負担だと言う。それを知った杉さんが男気を発揮し支援を申し出たとのこと。私は早速新商品の《アパッチメイク》のプロモーションに活用することにした。アパッチメイクとは、プロ野球選手が日差し除けの為目の下に黒いアイシャドーを入れるアレである。私はカラフルなアイシャドーを数種発売して、夏の海辺の若者達のファッションに定着させようとアパッチメイクと名付け仕掛けたのである。鈴鹿のレース場で水着を着た女性モデルに、アパッチメィクを施しデモンストレーションをさせた次第。イベント最終日、優勝者に賞品の車贈呈する為来ていた杉さんが顔中にアパッチメイクを塗りたくって舞台に登場した時、観客のみならず私も杉さんの男気に心から驚かされた。
杉良太郎は毎年明治座で公演を行っていた。前半は杉さん主役の時代劇。後半はタキシードに着替え、ヒット曲を中心にした歌謡ショーの構成である。杉さんの時代劇はほぼ内容が決まっている。貧しい下級武士の杉さんが、美しい若妻と共に慎ましく暮らしている。その若妻を悪殿が見初め、夫である杉さんに次々と難題を押しつける。耐えに耐えていた杉さんが、若妻を攫われるに及んで遂に堪忍袋の緒を切って単身城に乗り込んで行くというストーリーだ。最後の戦いの場面で力尽きた杉さんが切腹させられるシーンでは、何回も見て展開を熟知している私ですら毎回想わず涙させられたものである。
後半の歌謡ショーでは一転して颯爽とタキシード姿で「すきま風」を中心としたヒット曲の数々を披露する。会場は「杉サマー‼杉サマー‼」のおば様達の歓声で溢れる。ショーの中程、杉様はゴンドラに乗って会場を一周し上からサイン入り手拭をばら撒く。私が行っている時は同行しているお客に届くようピンポイントで投げてくれる。
舞台終了後楽屋を訪ねると、沢山届いた楽屋花の中で私が贈った花が一番前に置かれている。鏡台にはソニーが出している香水「ジャンルイシェレル」がちゃんと置かれている。杉良太郎は《男気溢れる気遣いの人》なのである。
ソニーの演歌は、チョーヨンピルの「釜山港へ帰れ」・渥美二郎の「夢追い酒」・内藤九段(将棋)の「おゆき」・杉良太郎の「すきま風」とヒットしたが何れも単発で演歌路線を築くという所までは行かなかった。昭和六二年 伍代夏子の「戻り川」のヒット、遅れること二年藤あや子の「おんな」のヒットで、漸く《ソニーの美人演歌路線》と讃えられるようになったのである。
ふきのとうと太田裕美
HIT ONCE MORE!
八 木 仁
宇多田の後、一気に時代を遡らせて頂こう。タイムスリップしてここは昭和四十九年十月、札幌市内を走るタクシーの中、私はSTVホールに向かっていた。CS(CBSソニー)からデビューすることになったフォークデュオ「ふきのとう」のデビューコンサート立会いの日のことである。会場が見える所迄来た時、私は想わず“ヤッタァ“と叫んでいた。長蛇の列がSTVホールを囲んでいたのである。
ふきのとうは前年ヤマハ主催のコンテストで優秀賞を受賞したことによって、今年デビューが決まったグループである。
北海道出身の山木君と細坪君のコンビは、デビュー曲の「白い冬」を始め数々のヒット曲を連発。昭和四十~五十年代にかけてフォーク界を牽引して行くことになる。彼等の音楽の世界を表すなら繊細さと優しさで、私は彼等の大ファンであった。自らコンサート会場へ最も足繫く通ったアーティストである。昭和五十七年に札幌厚生年金会館で行ったエバーラストコンサートが最後のライブとなり二人はコンビを解消。その後は各々独自の音楽活動を続けている。ふきのとうの復活を願っているのは私一人ではない筈である。
ふきのとうと同年、CSからもう一人期待の新人が誕生した。十九歳の「太田裕美」である。デビュー曲の「雨だれ」は美しい曲であった。当時宣伝部で地方ラジオ局を担当していた私は、彼女のデビューに際し北海道から長崎迄、ふきのとう事務所の社長を誘って二人で各地のラジオ局を回り、二組の歌手の素晴らしさをアピールして歩いた。その後の太田裕美の活躍振りは皆様ご承知の通りである。
昭和五十一年私の結婚式の際にはゲストとして登場しピアノの弾き語りで「雨だれ」を披露してくれた。律儀な彼女とはその後長い間年賀状のやり取りが続いている。
一昨年私が句集「絆」を刊行した際、彼女にも贈呈した処お礼の言葉と共に“作詞の勉強になります”との手紙が届いた。昨春以来乳癌との闘病で頑張っているようだが、一日も早い復帰を心から祈るばかりである。
さて余談を一つ。昭和五十年、私は札幌所長に任じられた。その折営業所のキャッチフレーズを《ヒット・ワンスモア》と定めた。北海道の市場は全国の五%のマーケットである。どんなに頑張っても五%の貢献度であるなら、北海道でヒットの芽を作りそれを全国に拡大させれば五%以上の貢献度に繋がると考えた次第。背景には道民の新し物好きな気質があった。明治以降入植して来た人達なので古い風習に捕らわれる要は無かったのである。又ラジ
オ局二局で全道をカバーしプロモーションがやり易かったのが第二の理由であった。こうして私の在任中北海道から生み出したヒット曲は、ふきのとう「風来坊」他数曲、紙風船「冬が来る前に」、渡辺真知子「迷い道」、天地真理「想い出のセレナーデ」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」・・・
多くのヒットの芽を育てることが出来たのである。
宇多田ヒカル
新歌姫の誕生と母の憂鬱
八 木 仁
平成十年秋、ソニーミュージックの子会社であるグローバルライツ(GR)の創業社長を務めていた私にO君が一本のテープを持って来た。「これをお聴きになってみて下さい」と言う。
早速聴いてみた。テープには《宇多田ヒカル|オートマティック》と記してある。テープが終わった時に、私は「ナンじゃ、こりゃ!」と叫んで居た。
「宇多田って誰?この音源の入手先は?」と矢継ぎ早の質問。「宇多田は十六歳。以前東芝から一枚出していますが今回やらないとのことでウチに持ち込まれました。藤圭子の娘さんですよ」とのこと。私は「絶対ウチでやろう!彼女は音楽業界を変える程の才能の持主だよ。プロデューサーは誰を考える?」O君は「XジャパンをデビューさせたYさんはどうです」の返答。私は彼に任せて経過を見守ることにした。
一か月待っても報告が無い。O君を呼んで状況を確認すると、Yさんは忙しいようで机の上にテープが置き放しとのこと。私は直ちにテープを引き上げさせ善後策を検討することにした。O君は「実はその後GRが出版を引受けてくれるのであれば、東芝でCD発売をやらせて欲しいと言って来たのですがどうしましょう」と言う。私は即決でOKを出した。O君は「我々はソニーの子会社なのに東芝と組んでしまって大丈夫ですか?」と念を押す。「問題なし!こうゆうこともあろうかとGRを創業させる時頭にソニーを付けなかったんだ。大賀さんからソニーの子会社で頭のソニーを断ったのはお前だけだと言われたけどね。折角東芝と組むんだから東芝のヒット作りを勉強させてもらおうじゃないか。それともう一つ、デビュー曲はオートマティック
で良いと想うけど、後に収録されていたファーストラブが素晴らしい曲だからこれを三曲目として発売するよう言っておいてくれ。業界には昔から良いバラードが仕上がったら三曲目に発売
するとその歌手は大ブレクするというジンクスがあるからね、、、、、、」
かくして、CD発売東芝EMI、音楽出版GRという業界初の組合わせで宇多田ヒカルは平成十年十二月にデビュー。「オートマティック」がいきなりWミリオンの大ヒット。十六歳のNEW歌姫誕生である。三か月後第三弾として発売された「ファーストラブ」は未曽有の売上を続け、特にアルバムの売上は止まる処を知らず遂に千二百万枚を数え、日本歌手の単独CDとしては史上最高記録を達成したのである。宇多田の大ブレイクにより、私に新な任務が発生することになった。本人にはマネージャーとして父親が付き事務所を東芝内に設置。宇多田が売れれば売れる程二人は日本中を飛び回ることになる。反面母親の藤圭子さんは自宅に一人取り残されることになる。ご主人の事務所がある東芝には行き辛いので必然的に不満を持っていく場がGRになる。圭子さんがGRを訪れる度にアレコレと続く愚痴をお聴きし、お慰めし安らかな気持ちでお帰り頂くの
が、私の重要な任務となったのである。
一気!一気!一気!
森山良子
八 木 仁
松田聖子の回で書いたように、私は昭和五七年名古屋営業所に着任した。
北陸を含む名古屋は、以前担当した北海道とは全く異るマーケットであった。
北海道はシングル盤が良く売れたのでヒットが作り易かったのだが、名古屋
は真逆でシングルの売上は低くむしろアルバムの売上比率が高い。中部の人の気質は新しいものには飛びつかず世間が評価したものを後追いで受け入れるという由。どうやら京都と東海・関東の間で永年争いに身を委ねて来た中部人独得の気質であるらしい。
一説には当時シングル盤は一枚四百円、一方アルバムは十二~十五曲入って二千円。
一曲当たりどちらが得かという経済観念だと主張する人も居た。何れにしろアルバム市場であったのは間違いない。私が着任した五七年、アルバムの良く売れるアーティストがCBSソニーに移籍して来た。森山良子である。
彼女は昭和二三年生まれ。父はジャズトランペッターの森山久、母はジャズシンガーの浅田陽子。良子さんの音楽的才能は天性のものなのである。昭和四二年「この広い野原いっい」でデビュー、その後の「禁じられた恋」で大ブレイク。米のジョーンバエズの来日公演にゲスト出演しデュエットしたことで《和製ジョーンバエズ》と称えられた。
その透明感溢れる歌声と抜群の歌唱力で名実共に日本ののトップシンガーと認められたのである。
私は当時森山良子が所属していた事務所MSとは、五輪真弓も同じ事務所だったご縁で、森山の移籍は大歓迎であった。彼女がソニーに移籍して最初に出したアルバムは「セフィニ~愛の幕切れ」である。タイトル曲はフジTⅤで放送されたドラマ『大奥』の主題歌となりヒットした。
私は森山の歌は時代劇に合わないと想ったのだが、放映が始まるとそんなことは無く時代劇
の後の森山の歌は何とも切なくて良いのであった。米の作曲家ゴードン・ジェンキンスが作曲をし演奏もしているのでおしゃれなアルバムに仕上がっており、今も私の愛聴盤の一つである。
森山良子が移籍記念のコンサートを名古屋で行った際、公演終了後営業所全員参加で懇親&慰労会を開催した。
宴も酣の頃、やおら良子さんが立ち上がり、「では只今より一気飲み会に入りマァス!最初は八木所長!」とのご指名。仕方なく立ち上がった私に水割のグラスが持たされる。良子さんの「サア行ききますよ!一気!一気!」の掛け声と手拍子に合わせ所員達も一気!一気!の大合唱。
どうしようもなく
アルコールが苦手な私も目を瞑って一息に流し込んだものである。私の後は課長、次は係長と全員良子さんの洗礼を受けることになった次第。何とも楽しくて苦しい想い出であった。
私が自ら望んでコンサートに出向いた歌手は、前出のふきのとう、五輪真弓に続いて森山良子が三番目である。彼女のコンサートのエンディングはいつもチャップリンの「エターナリー」と決まっている。
彼女は手巻オルゴールの伴奏で《♪いつまでもあなたにこの愛をあげましょう》と歌う。