新連載

あゝあの人は

浜田省吾

 夜明け前・三人の客の前で熱唱

 八 木 仁

 昭和五十年、CBSソニーから広島
出身のバンドがデビューした。バンド
の名は「愛奴」。デビュー曲はバンドメ
ンバーの一人「浜田省吾」が作詞・作
曲した「二人の夏」という曲であった。
私はこの曲が好きであった。サウンド
に当時の音楽業界に無い新しさを感じ
た故である。そして翌五十一年、愛奴
は突然解散してしまった。私は担当で
無かった為何があったかは知らないが、
バンドでドラムとヴォーカルを担当し
ていた浜田省吾がソロシンガーとして
再スタートすることになった。
 当時札幌営業所長の任に着いていた
私は、嘗ての同僚であった宣伝部員か
ら電話をもらった。「浜田省吾が再ス
タートを切るが、北海道から火をつけ
たいのでキャンペーンをしてもらいた
い」という依頼であった。元々愛奴に
注目していた私は、待ってましたとば
かりに引き受け、北海道主要都市での
ライブ実施と札幌でのコンサート開催
を営業所の宣伝担当に指示した。
 月日ははっきりと覚えていないが、
多分五十一年の秋だったと思う。ソロ
デビュー曲の「路地裏の少年」を引っ
下げて浜田省吾が北海道にやって来た。
STV(札幌TV放送)とHBC(北
海道TV放送)の挨拶回りを皮切りに、
釧路・帯広・旭川でのライブをこなし、
キャンペーンの最後の予定は札幌での
コンサートの開催であった。私は当日
コンサート会場である「道新ホール」
へ足を運んだ。会場入口で青い顔をし
た宣伝担当が私を待ち受けていた。
 「所長、大変です!お客が三人しか
集まっていません」との言。念の為ホ
ールを覗くと、確かにキャパ七百人の
道新ホールに三人の人影しか見えない。
私はすぐさま浜田の楽屋に駆け付けた。
楽屋で彼と向き合った私は「浜田、申
し訳ない。我々の力不足で会場に三人
のお客しか集まっていない。だけど、
この三人は北海道内で真実コアな君の
ファンだ。だから今日のコンサートは
気を抜かないでこの三人に全力で歌っ
て欲しい。この三人がいずれ三百人を
集める基になってくれるかも知れない
のだから。札幌はこれから全力で君を
応援することを約束する。ここからス
タートだと想って熱いステージを見せ
てくれ!」と。浜田は私をじっと見つ
めていて、やがて力強く言い切った。
「八木さん、良く判りました。今日熱
いステージをお見せすることを約束し
ます。これからの僕を見ていて下さい」
事実、その日の彼のステージは期待以
上の熱唱であった。
 北海道キャンペーンの後、確か出身
地の広島で火がついて「路地裏の少年」
はヒット。音楽業界のチャート誌オリ
ジナルコンフィデンスで、最高位十位
位迄上がったと記憶している。
 その後の浜田省吾は、少し鼻にかか
った独特な声で若者の叫びを歌い「片
想い」「もう一つの土曜日」等のスロ
ーバラードを大ヒットさせ、日本音楽
史上不動の地位を築いていくのである。
浜田省吾にも、明日を夢見てたった三
人の観客相手に歌った日があったので
ある。前向きな意欲に溢れた好青年であった


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あゝあの人は

野沢明美&遠藤実
  演歌の真髄は?
          八 木  仁

 アイドル路線、フォーク&ニューミ
ュージック路線に加え、矢沢永吉によ
るロック路線も確立したCBSソニー
国内制作部門最後の課題は演歌路線の
確立であった。兎に角二十三十代の若
者が集まった会社であるので(私の記
憶では当時四十歳を超えていたのは全
社員の内二名のみ)そもそも演歌にな
じみのあるスタッフが居ないのである。
手っ取り早い方法として、有名演歌歌
手の肉親を起用しようということで白
羽の矢が立ったのが当時絶頂期にあっ
た「都はるみ」の妹であった。「野沢
明美」という芸名を付け、デビュー曲
は演歌界の大御所「遠藤実」先生に依
頼した。
ご承知の通り遠藤実氏は、自らの名
を冠したミノルフォンレコード(現徳
間音楽工業)の創始者である。当時既
に「高校三年生」「北国の春」「雪椿」
「くちなしの花」等ヒット曲を連発し
昭和の歌謡界に君臨していた。
 因みに「北国の春」は、「千昌夫」
の歌唱である為東北の春を歌った曲と
想われがちだが、作詞の「いではく」
は長野の出身である為信州の春を詠っ
た曲なのである。閑話休題。
 さて、このような機会はめったにあ
るものでは無いので、遠藤先生に会社
へお出で頂きお話を伺うことになった。
私は率直に先生に質問をさせて頂いた。
「CBSソニーのテーマは演歌路線の
構築である。何を課題として今後どの
ように進めていったら良いのかご教示
頂きたい」と。
 遠藤先生はトレードマークの髭を撫
ぜ乍ら徐に語り始めた。「私は東京の
向島で生まれました。戦時中両親の故
郷であった新潟に疎開しました。中学
卒業後独学で音楽を勉強し、歌手を目
指して先ずギターを抱えた“流し”に
なったのです。新潟一の夜の繁華街・
古町と言う処で流していたのです。新
潟の冬をご存じですか?極寒なんです。
店に入ってニ、三曲歌って外に出ると
たちまち指が悴んでしまって、次の店
に行ってギターが弾けません。どうし
たと想いますか?近くの路地に入って
オシッコをするんです。自分のション
ベンで指を温めるんです。あゝ外はこ
んなにシバれるのにオレの体内にはこ
んなに暖かいものが流れているんだ。
八木さん、これが演歌の心なんですよ」
と分かったような分からない話ではぐ
らかされた。
 結局、野沢明美のデビュー曲は、大
したヒットもしないで終わり、彼女は
私の先輩であった宣伝マンと早々に結
婚して引退してしまった。
その後演歌路線は、チョーヨンピル
の「釜山港へ帰れ」、渥美二郎の「夢追
い酒」、内藤九段(将棋)の「おゆき」、
杉良太郎の「すきま風」とヒットを出
したが何れも単発に終わり、路線を築
くまでには至らなかった。
 ソニーの演歌路線が確立したのは、
「伍代夏子」「藤あや子」の二人が登
場し《ソニーの美人演歌路線》と讃え
られるようになった昭和六十二・三年
まで待たなければならないのである。


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あゝあの人は

オレはヤザワエイキチだ!

          八 木  仁

 昭和五十年、和製ロックバンドとし
てメキメキ頭角を現してきた「キャロ
ル」を解散して「矢沢永吉」がソロシ
ンガーとしてデビューを飾ることにな
った。これによりCBSソニーは天地
真理・郷ひろみ・山口百恵を中心とし
たアイドル路線、吉田拓郎・五輪真弓
を中心としたフォーク&ニューミュー
ジック路線に加え、ロックの分野でも
確たる柱を有することになった訳であ
る。ソロデビューを控え会社を訪れた
矢沢に、私は取材の機会を得た。イメ
ージ通り矢沢は熱い男であった。ソロ
になる意気込み、ロックの将来、音楽
に対する情熱を、文字通り身振り手振
りを交え熱く語ってくれた。彼の熱弁
が一段落した処で、私は最も気になっ
ていたことを質問した。「キャロルの
メンバーのことは気にしなくて良いの
か?」と。彼の答えは明快であった。
「八木さんオレはヤザワエイキチです。
ヤザワとして独立しました。キャロル
のことは今後一切気にして頂くことは
ありません」私はその後、札幌営業所
長として赴任することになっていたの
で、矢沢に対する最後の仕事として彼
のロゴを決定し、後は後輩に託し新任
地へ旅立った。(勿論ロゴをデザイン
したのはデザイナーであるが、三案示
された候補作の内、今日迄使用されて
いる《E・YAZAWA》のロゴを選
択し決めたのは間違いなく私である)
 翌五十一年、矢沢はキャンペーンで
来道した。札幌営業所を訪れた矢沢は、
暫く振りに会った私にいきなり「八木
さん聞いてよ。この前オカシかったん
だから、、、矢沢の出身地の広島でコンサ
ートが在った時、移動が飛行機だった
のでバンドの坊や(メンバーの楽器等
を運ぶ付人)に『飛行機に乗る時はタ
ラップの上で靴を脱いで、スチュワー
デスさんに失礼しますと挨拶してから
乗るんだ』と言っていたら、飛行機が
初めてだったソイツが真面目にその通
り乗ってきたので大笑い!」イタズラ
好きで茶目っ気のある男なのである。
 キャンペーン実施地の旭川に送り出
した処、同行させた販促担当から電話
が入った。矢沢がキャンペーンには参
加しないと言っているので所長スグ説
得に来て下さいとのこと。私は直ちに
次の特急に飛び乗り旭川に向かった。
矢沢のロック愛と男気に賭けて説得す
るしかないと心に決め、矢沢が待つ国
原楽器の控室に入って行った。矢沢は
「ここに来てからフィルムコンサート
だと知った。フィルムを鑑せた後自分
が挨拶するだけなんてそんなの意味が
ない」と主張する。私は「矢沢の言い
分は分かった。君の気持は八木が受止
めた。ただ既に君に会うのを楽しみに
来たファンが二百人集まっている。今
日君がファンの前で挨拶してくれたら、
君のアルバムの北海道の売上を7%に
上げるよう約束しよう。(通常の北海
道の市場は全国の5%)だから八木を
信じてファンに顔を見せてやってくれ」
矢沢は不承不承私の説得を受入れた。
一年後、矢沢のデビューアルバム「Ⅰ・
LOVE・YOU‘OK」は北海道で
全国の7%の売上を達成した。


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あゝあの人は

アンディ・ウィリアムス

  PⅠNGのクラブセットを担いで
  ヘリから颯爽と降り立った!

          八 木  仁

 昭和四十五年、CBSソニーの国内
制作部門がスタートしたこの年、主要
なマスコミ関係者を招いて懇親ゴルフ
会を開催することになった。その時の
CBSソニーは創業間もないこともあ
り、宣伝費も潤沢な予算ではなかった。
後に大社長になる大賀さんが社員を集
めた朝礼で「君達、コピー(リコー社
の青焼き)とゼロックスでは何円違う
か知ってるか?青焼きは一枚三円だが
ゼロックスは二十円係るのだぞ」等と
コスト意識を喚起していた時代である。
経費は通常出来得る限り節約しておい
て、その代わりここぞと言う時には他
人が吃驚する位惜しみなく使えという
のが、ソニー本体・ハードも含めたグ
ループ全体の基本方針であった。  
 その“ここぞ”と言う時が、第一回
マスコミ懇親ゴルフ大会であったので
ある。特別な催しにする為アメリカか
らアンディ・ウィリアムスを呼んで《
アンディ・ウィリアムス懇親ゴルフ会》
と名付けた。コースは大箱根カントリ
ークラブを貸し切り、優勝者の賞品は
当時米で話題のPⅠNGのゴルフクラ
ブセットを用意することにした。ピン
は発売当初米を始め世界で大きな話題
を集めたがこの時点で未だ日本には輸
されてなく幻の名器とされていた。
大会前日私はスタッフの一人として
箱根のホテルに宿泊し準備に追われた。
迎えた当日、スタッフの注目は、本当
にあのアンディ・ウィリアムスが日本
のゴルフ会の為だけに来日してくれる
のだろうか?ということであった。羽
田にアンディを迎えに行った洋楽の部
長から連絡が入った。アンディが無事
羽田に着いてゴルフバックも持って来
ているから安心するように。これから
ヘリに乗り換え箱根に向かう」という
メッセージであった。スタッフの控室
に歓声が上がった。迎えに行った洋楽
部長は元々米のCBSに勤めていた人
で、以前からアンディとは懇意なので
あった。ご招待者百五十名が三々五々
集まり始め大会の準備は全て整った。
 遠くからヘリの爆音がゴルフ場に近
付いて来た。そして到着したヘリから
洋楽部長に続きピンのゴルフバックを
担いだアンディが姿を見せた時、私は
不覚にも涙を堪えられずに居たのであ
る。かくして記念すべきゴルフ大会が
始まった。第一組のスタートは勿論ア
ンディの組である。私以外の宣伝部員
は各組に一人づつ付いてスタートして
行った。スコア担当の私は、集計室に
待機した。当時社内で数字のことは八
木に任せておけば大丈夫という絶対的
信頼を得ていたのでスコア係を仰せつ
かったのである。従ってアンディは勿
論他の参加者のプレーも一切見ていな
い。プレイ後の懇親パーティで、優勝
者にPINGのクラブセットを贈呈す
るアンディの姿を見ただけである。彼
と話してもいないので正しくは会った
とは言えないかもしれない。
 しかし憧れのアンディ・ウィリアム
スのカッコ良さは、忘れられない想い
出として残っている。


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あゝあの人は

大賀典雄②
 ハードからソフトへの変身

八 木 仁


 昭和五十三年、札幌営業所長からソニークリエイティブ(SC)への異動を命じられた。新設されたSCはキャラクターの会社であるのでキャラクターに取組むのかと想ったら、人事部長が「八木はコスメの開発をやってもらう」と言う。恥ずかし乍ら「コスメって何?」と聞くと「化粧品だよ」の答。「エッ?ソニーが化粧品を?それにしても何で私?」と問うと「大賀さんが八木にやらせろと、、、」かくして大きなテーマを拝命し化粧品業界に無謀な挑戦をする事になった次第。
 

しかし流石に資生堂、鐘紡、コーセー、E・ローダー、、、等各社のマーケティング力は素晴らしく、ソニーと言えども中々市場に食い込んで行く事は困難であった。大賀さんに会う度に「ソニーの名を冠した新事業でこんなに時間がかかっているのはお前だけだぞ」と散々責められていた。「もう少し待ち下さい。化粧品事業は利益率が高いので上手くいき始めたらスグ投資金をお返し出来ます」と夢を語って切り
抜けていた。凡そ十ニ年程かかったであろうか。訪問販売とエステサロンを組み合わせた全く新しい販売方式を確立し、代理店二百五十、サロン千店、レディさん一万二千人の組織を創り上げた。大賀さんが投じてくれた金額は更に三年半で全額回収できたのである。
 大賀さんについて忘れられない想い出がもう一つ。昭和五十七年の春、ソニーミュージックの幹部社員を集めた経営方針説明会の席上、大賀さんは徐に背広のポケットから銀色に輝く円盤を取り出し「これからのLPはこのCDに変えていく」と宣言された。大賀さんは「クラシックで一番長い楽曲はベートーべンの交響曲第九番、七十四分だ。LPだとどうしても二枚になってしまう。これを一枚で収めようとカラヤンと相談してCDの収録時間を決めた。更に家の保管スペース・重さの点でもCDはメリットが多い」と力説された。ところが当初のCD器は据置型で十六万八千円と高価でソフトも一枚三千八百円で中々一般に普及しない。行き詰った処で、当時営業次長であっ
た私の処へCD推進室長兼務というお鉢が回って来たのである。嘗て盛田昭夫さんの項の随筆に詳細を書いた通りターゲットを中高生の若年層に変える事によってCD戦略を成功へと導く事が出来た。
 CDの導入は、ソニーグループがハードからソフト中心の企業へと変身する大きな切っ掛けになった。五十年後、ソニーグループの約六十%をソフト事業が占めるように変身するとは当時の誰が予測したであろう。盛田さん大賀さん、この偉大な経営者の下で私は六社の新会社の起業を手掛け、その何れもが今も利益を上げ続けている。つくづく幸せな社会人人生であったと想う。
大賀さんはリタイア後軽井沢に私財を投じて大賀ホールと言うクラシックの殿堂を建設され市に寄贈された。後年、現俳人協会会長であられる片山由美子氏がドイツを旅された際、大賀さんの銅像が在ったと写真を見せて下さった。 


大賀典雄①
 歌手とソニー部長の二足の草鞋

 八 木 仁

 令和八年を迎え、随筆のタイトルを変更させて頂きました。気持ちも新た
に今年も頑張って参りますのでに宜しくお付き合いの程お願い申し上げます。
 「私の出会ったあの人」シリーズは、歌手を中心に様々な分野のアーティス
トの話で展開させて頂いて参りました。嘗て経済界からお一人だけ私の尊敬す
る経営者として盛田昭夫氏を取上げさせて頂きました。新年の幕開けにもう
お一人経済界の偉人をご紹介させて頂きます。ソニーの三代目社長にして我
がCBSソニーで私のビッグボスであった大賀典英雄氏です。
 私と大賀さんとの最初の出会いは、私が創業間もないCBSソニーを受験
した際の四次試験専務面接の時でした。人事担当の呼込で入った専務室には、
奥の机に大きな躰の大きな顔の男性が座って居たのです。机の前に用意され
た椅子はやや低めで座った私は必然的に顔の大きな男性を見上げる形になり
ました。質問をされた男性の声を聴いてナント美しい声の持主だろうと想い
ました。重厚な艶のあるバリトンがその大きな顔から発せられるのです。こ
の時点では私に何の知識も無かったのですが、後で知った処によると彼は芸
大を優秀な成績で卒業した日本を代表するバリトン歌手だったのです。
 そもそも大賀さんがソニーに入社したエピソードが面白い!昔のソニーは
音響の分野でも日本をリードする企業であり、当然芸大も重要な顧客であっ
た訳です。ところがある時、最近の芸大には異常にメカに詳しい学生が居て
彼がアレコレと難題を投げかけて来てセールスがやり難いとう報告を聞いた
盛田さんが、その学生との会談を指示。後日会社に登場した大賀さんを面談し
た結果、即座にソニーの音響部長としての採用を決めたと言う。かくして大
賀さんは、芸大卒業後バリトン歌手としてのデビューを飾ると同時にソニー
の部長として二足の草鞋を履くことになった訳である。そんなある日、疲労
が重なり寝過ごしてしまい予定のコンサートに穴を空けてしまった。これに
懲りて以降ソニーの仕事に専念されるようになった、、、、、、、、、、、との話である。
 芸大出身の大賀さんの天才的な音楽センスが、後年CBSソニー国内部門
の成長を阻む事になろうとは一体誰が予測したであろう。レコード会社は月
一回ディレクターが発売候補作品を持ち寄り発売を検討する会議が開かれる。
これに当初は大賀さんも出席され悉く作品にダメ出しをされ創り直しを命じ
ていた。理由は歌手が一か所音を外しているからだと言う。私は、レコード
購入者が半音のズレを判るだろうか?と疑問を持った。事実他社のアイドル
で半音外し乍らも大ヒットさせている歌手は沢山居るのである。そこで令和
六年四月の「にしきのあきら」の項で詳細を記したように《購入者へのアン
ケート》《モニター制度》《ラジオ局調査》により「ヒットの方程式」を三
年かけて確立。これにより大賀さんは先ず「八木君のモニターは?」と聞い
てくれるようになった。更に一年後には発売決定会議に参加すらしないよう
になったのである。 (続)

 


私の出会ったあの人

フェラン・アドリア①
 次は彼の時代!ロブションは言った

 八 木 仁

 二十世紀が終わろうとしていた時だったと想う。私はロブションに問うた。
「二十一世紀仏料理界を牽引するのは誰だと思う?」彼は一瞬の躊躇も無く
答えた。「エルブリのフェラン・アドリアだね。予約は七年待ちだけど、、、、」
その時はそういう話で終わった。その後私はソニーからワーナーへ移
り、ワーナーを辞めた後友人二人と共に知的財産権を扱う《プレミアミッシ
ョン》と言う新会社を設立していた。 平成十六年、提携していたスペイン
の会社から連絡が入った。「エルブリに興味あるか」と言う。私は大アリだ。
フェランに会いたい」と応えると「日本の企業が数社アプローチしているけ
ど何処とも会っていないらしい。ウチに国王の従弟が勤めていて紹介できる
けど会ってみるか?」の言。私は早速バルセロナへ向け旅立つことにした。
七月十二日午後六時、スペイン側が用意した車でホテルを出発した。高速道
路を使って仏国境に近いフィゲラス迄飛ばす。高速を降りて東へ進路を変え
海岸リゾートのロサスを通過。車一台がやっと通れる程の山道を進む。山道
の先に静かな入江が見えてくると格好のロケーションにレストラン・エルブ
リが突如出現する。バルセロナから遥々二時間のドライブ。世界中のグルメ
が良くこんな処までやって来るものだ。午後八時、席に案内されディナーが
始まった。先ず最初に運ばれて来たのが四本の蓮華。そこに四色の液体が入
っている。味の四要素《甘味、辛味、酸味、苦味》とのこと。っこれで自分
の味覚を覚醒させこれからの料理を楽しんで欲しいとのこと。当日のメニューを紹介しよう。(何れも少ない量で提供された料理だった)1 酢をまぶしたビーツのリボン②ラズ
べリークリスプ③ピクルス・酢とマスタード④ボレックスマカロニとココナ
ッツバター⑤ナマコのパチパチ⑥ユーカリと赤スグリの透明なターンオーバ
ー⑦大根の芽入りカダイフ⑧リコリス入レモンの天ぷら⑨電動ミルク四川風
ボタン⑩クラウドオブポップコーン⑪アーモンドべーシックテイスト⑫黄金
の卵⑬イベリコ豚のボカティージョ⑭メロンキャビア⑮ビスタチオトリュフ
⑯オレンジフラワー添えの鶏皮クレープ⑰チ―ズパンのフルーツミューズリ
ー⑱フォアグラと鴨のキヌアコンソメスープ⑲ジャガイモのニョッキと自家
製ソース⑳イベリコ豚脂とビスタチオ風味の牡蠣●コンソメのタルアッテレ
カルボナーラ●ロブスター●アスパラガスの卵タルフォ添え●マテ貝の握り
ジンジャースプレー●烏賊とココナッツのラビオリ●アイスレモン入りの球
状の紅茶●オムレツサプライズ●チョコレートソイル、、、、、、、断っておくが全て
料理の名称である。全ての料理が驚きの連続であった。食事が終わったのが
午前零時三十分。お客様が帰られた後中庭のテ―ブルでフェランと会談。私
はロブションプロジェクトが日本で如何に成功しているか熱く語り、エルブ
リの日本進出を要請した。バルセロナのホテルに帰ったのは午前四時、長い
一日であった。 (続)

私の出会ったあの人

 


 山下達郎&竹内まりや

 琴瑟相和す

 心に沁みた「いのちの唄」

 八 木 仁

 

 私は嘗て、音楽業界の誰もが「教授」と呼んで尊敬している人として坂本龍一のエッセイを書いた。実はもう一人いえ正確に言うともう一組、業界の誰もが「さん」付で呼んで愛しているアーティストが居る。山下達郎さんと竹内まりやさんのご夫妻だ。平成十二年、
私がワーナーミュージックジャパン(WMJ)に移って、この夫妻との交歓が始まった。私がWMJへの転籍を伝えるとソニーミュージック時代組んでいたロンドン在住の松任谷氏から「八木さん、竹内まりやに宜しく伝えて」と言われた。「彼女知ってるの?」と聞くと「慶応在学時代、僕のバンドのヴォーカルを担当してもらっていた」ご縁との由。

 WMJで山下・竹内ご夫妻と初対面の折、私は早速この貴重なネタをまりやさんにご披露した。併せてSME時代、Iプロデューサーの結婚式に出席した際、お二人がゲストで登場され新郎新婦に「レット・イト・ビー・ミー」(シャンソン歌手のジルベールベコーが創った名曲)をデュエットでプレゼントされたが、私は外国人歌手を含めてもあんなに素晴らしい同曲を聴いたのは初めてだったと熱く語った。(興味を」持たれた方は、竹内まりやのアルバム「スーベニール」をお聴きになってみて下さい。感涙必至です)

 これを契機に二人とは度々話をするようになったが、私の率直な感想を申し上げるならば、一般人を含めたとしてもこんなにお似合いのご夫婦は滅多にお目に掛かれるものではないと想う。

平成二十一年、まりやさんはNHK朝ドラ「だんだん」(茉奈佳奈主演)の挿入歌にⅯIYABIというペンネームで詩を付け「いのちの唄」として発表したが、この歌詞の中に本当に大切なものは隠れて見えない。ささやかすぎる日々の中にかけがえない喜びがある

生まれてきたこと、育ててもらえたこと、出会ったこと、笑ったこと

そのすべてにありがとう

この命にありがとう・・・・と歌う。

これこそまりやさんの人生観そのものであると納得した。(竹内まりやのアルバム「TRAⅮ」に収録)まりやさんの歌で最も売れた「駅」という代表曲がある。この曲は、元々中森明菜の為にまりやさんが創った曲であるが、まりや盤を出すに当たって夫である達郎さんのアドバイスに従いさり気無い歌唱法で歌ったところ、まりや盤が明菜盤を凌ぐ大ヒットに繋が

ったという逸話が残っている。一方達郎さんのコンサートに行くと、楽屋に必ずまりやさんが控えていて来客一人一人に「今日は有難うございます」と丁寧なお礼を繰り返し自ら煎れ

たお茶を出してくれる。そこには大歌手の面影は微塵も無く、黒子のスタッフに徹した姿がある。

山下達郎&竹内まりや、真に琴瑟相和し音楽をこよなく愛する素晴らしい夫婦なのである。

 

 

 




 

俳枕          

「水無瀬と田中裕明」

広渡敬雄 

 

水無瀬は、大阪府三島郡島本町の古くから風光明媚な地域で、京都府乙訓郡大山崎の天王山と接する。後鳥羽上皇の「見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」の名歌で知られる離宮跡は、承久の変で隠岐に流されその地で没し、遺言により建てられた上皇の霊を祭る御影堂が、水無瀬神宮の起となっている。

「離宮の銘水」また、宗祇の「水無瀬三吟」でも名高い。 

木津川、宇治川、桂川が合流する淀川べりは、谷崎潤一郎の「蘆刈」の舞台でもあり、鵜殿原の蘆は京都御所の雅楽の篳篥の材とされ、蘆焼も当地の風物詩である。

詩人三好達治ゆかりの本澄寺には記念館と墓があり、対岸石清水八幡宮の竹林の竹は、嘗てエヂソンの白熱電球のフィラメント材料に珍重された。

 水無瀬なる小さき雛を納めけり 田中裕明

 雪ながらやまもとかすむ夕かな 宗祇(水無瀬三吟)

 小田べりの水無瀬の紅葉水鏡 阿波野青畝

 遂に空風花ふらす水無瀬宮 能村登四郎

 春や水無瀬ゆるりと雪の舞ひをれば 川嶋一美 

芦刈の眉目佳きはみな男なり 大石悦子

芦焼いて芦にあらざる物も燃ゆ 名村早智子

記念館涼し達治の詩の世界 森田 峠

枯れ果てて川の真中は流れをり 山上樹実雄 

「水無瀬なる」の句は、平成六年作、第四句集『先生から手紙』に収録。俳人森賀まりと結婚後四年目の平成二年に水無瀬(島本町若山台)に転居し、三女に恵まれ、華やいだ慎ましやかな家庭だった。「小さき」に裕明らしい含羞もあり、創刊俳誌名も「水無瀬野」としている。

田中裕明は、昭和三十四(一九五九)年大阪市生まれ。府立北野高校時代から、短詩型全般を手掛け、「青」(波多野爽波主宰)に入会。京都大学進学後の第一句集『山信』で「二十歳の自分とは、勝負あった」と師爽波を脱帽させ、同五十七年二十二歳で、当時史上最年少の「角川俳句賞」を受賞、岸本尚毅と共に、「青」の若手双璧と言われた。

その後同五十九年「晨」創刊に参加、同六十年第二句集「花間一壺」を上梓、師爽波死後の平成四(一九九二)年に「水無瀬野」(後の「ゆう」の母体)を創刊した。

「写生と季語の本意を基本に、理屈や意味のない世界が詩の本来の世界とし、詩情を大切にする」をテーマに岸本尚毅も参加し、森賀まり(俳人協会賞)、満田春日、山口昭男(読売文学賞)、対中いずみ(俳句研究賞、星野立子賞)、橋本石火、藤本夕衣等を育てた。

俳壇のニューウェーブとして活躍は伝説的でもある。

同十四年、十年間の集大成たる第四句集『先生から手紙』を上梓。茫然として摑み所がなく、擬古典派のやや難解な句風から、家族への暖かなまなざしの句も多くなった。

この頃から、骨髄性白血病等のため、入退院を繰り返し、平成十七年第五句集『夜の客人』の刊行直前の十六年十二月三十日、逝去。享年四十五歳。その後、有志の尽力で『田中裕明全句集』が刊行された。同二十二年には「田中裕明賞」も創設され、若手有力俳人の登竜門となっている。

「その詩質は初期の時代から、夭折には不似合いな懐の深さと大成の似合う大きさと風格があった」(宗田安正)、「伝統派の貴公子でその魅力は一言で言えばなつかしさ」(高橋睦郎)、「その史的意義は、「ホトトギス」の系譜ながら「写生」の神話を打ち破ったこと」(仁平勝)、「裕明俳句には、どこか喪失感がある。埋められない無常観の哀しみが作品に滲み出し、読者の琴線に触れる」(角谷昌子)、「ごく少数の良質の読者がいたから、裕明は次の句、更なる句が書けた」(小澤實)、「取り合わせに今日的な新しい意味を見出し、その技法を最大限に活用している極めて尖鋭的な作家である」(四ツ谷龍)、「伝統的だが古くなく、私的であるが生活臭がなく、虚と実との区別を忘れさせるほど自然である」(岸本尚毅)、「伝統俳句に納まらず、伝統とは、何かを問い質す存在としての裕明俳句は耳で聞く詩歌として似つかわしい」(小川軽舟)等々の鑑賞がある。

ラグビーの選手あつまる櫻の木

大學も葵祭のきのふけふ (以上『山信』)

雪舟は多くのこらず秋蛍

悉く全集にあり衣被

いちにちをあるきどほしの初櫻

ただ長くあり晩秋のくらまみち

渚にて金澤のこと菊のこと

麦秋と思ふ食堂車にひとり (以上『花間一壺』)

なやらひの犀川へ雪捨てにゆく

水涸れて天才少女とはかなし

梨むいてゐるかたはらに児を寝かせ 

秋草のきみをちひろと名づけしは 

宿の子をかりて花火を見にゆくも(以上『櫻姫譚』)
 生年と没年の間露けしや

小鳥来るここに静かな場所がある

水遊びする子に先生から手紙

壺焼やこの人は磨けばひかる

子規の忌を修し爽波の忌を修す

柿の木のぽつと明るき冬構 

原子炉に制御棒あり日短

エヂソンの竹なる竹を伐りにけり(石清水八幡宮)

どの道も家路とおもふげんげかな(以上『先生から手紙』)

外へ出てみれば明るし冬の山 

寒の水この手にうけむこころして(「ゆう」創刊)

けがの子をはげましてゐる櫻かな

一生の手紙の嵩や秋つばめ

空へゆく階段のなし稲の花

目のなかに芒原あり森賀まり

爽やかに俳句の神に愛されて発病

みづうみのみなとのなつのみじかけれ

詩の神のやはらかな指秋の水

教会のつめたき椅子を拭く仕事

木を守り水を守りぬ初あらし

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる(以上『夜の客人』)

仰臥して冬木のごとくひとりなり(『夜の客人』以後)

死後益々存在感を高める裕明俳句。古今の詩歌に通じ、平明な表現で意表を突く取り合わせながらも、読者を納得させ得る妙は天性の才だろう。集中の句に多くみられる「明るい」という言葉が、何故か切ない。 


 

俳枕           小豆島と尾崎放哉 

広渡敬雄 

 

小豆島は香川県に属し、瀬戸内海では淡路島についで二番目に大きな島。最高峰は星ヶ城山(八一七㍍)で、奇岩絶壁の寒霞渓や銚子渓は新緑、紅葉で名高い。 

瀬戸内海型気候で温暖少雨のため、オリーブ栽培、天日 乾燥の手延素麺作りが盛んで、四百年の歴史を有する醤油造りは、近代産業遺産にも認定されている。 

島内のみの八十八ケ所霊場を巡る「島四国」の遍路道は、全行程一五〇キロにも及び、当島出身の壺井榮の小説「二十四の瞳」とその映画―高峰秀子の大石先生と十二名の教え子との戦前、終戦翌年迄の激動期の交流を描くーで小豆島は全国的に有名となり、南東の岬に分教場が今も残る。尾崎放哉は、大正十四(一九二五)年八月に来島し、西光寺奥の院・南郷(みなんご)庵(あん)で翌年四月七日、四十一歳で没した。 

師荻原井泉水から小豆島行きを勧められ、〈翌(あす)からは禁(きん)酒の酒がこぼれる〉の送別の句を拝して京都を離れ、僅か八ヶ月後であった。吉村昭の小説『海も暮れきる』はその八ヶ月を精緻に描き、村上護の『放哉評伝』にも詳しい。 

ちなみに同じ「層雲」所属で、自由律俳句の双璧の種田山頭火は、その三日後、熊本で一鉢一笠の放浪に旅立つ。 

 

春の山のうしろから烟が出だした 尾崎放哉 

 

蛙つぶやく輪塔大空放哉居士   水原秋櫻子 

 

裏も見過し放哉の墓さみだるる 松崎鉄之介 

 

風絶ゆるなくオリーブの匂ふかな 清崎敏郎 

 

葉牡丹の長けて塔なす島札所   池上樵人 

 

オリーブの実を食ふ鴉つややかに 堀口星眠 

 

オルガンに遅日の埃積りしを(分教場) 伊藤柏翠 

 

 燕低し海にかぶさる醤油蔵 広渡敬雄 

 

「春の山」の句は放哉の辞世句、意識朦朧とした中で、自身の屍を焼く煙に思いを馳せたのかも知れない。「絶唱とも言われる何とも象徴的な句。人間の営み(生)であれ、荼毘の煙(死)であれ、煙は内的な風景まで昇華されている」(伊丹三樹彦)、「放哉が放浪と苦悩の果てに見た最後の光景。それが「めでたい」と思う」(林誠司)の鑑賞がある。 

放哉は明治十八(一八八五)年、鳥取市生れ、本名は秀雄。父尾崎信三は元鳥取藩士で裁判所書記官であった。 

県立鳥取第一中学時代から俳句(「ホトトギス」投句)を始め、上京後の第一高等学校時代、一高俳句会の一年先輩で生涯の師となる荻原井泉水と出会う。東京帝国大学法科大学卒業後東洋生命保険や朝鮮火災海上保険に就職するも、極度の酒癖の悪さが影響し、退職を余儀なくされた。 

生命保険会社勤務時代の大正四(一九一五)年頃から井泉水主宰の自由律俳句「層雲」に出句し、徐々に山頭火等と同誌を代表する俳人として注目されるようになった。 

酒乱と人への蔑みは二十一歳の頃、従妹の沢芳衛へ求婚するも、医学部出身の彼女の兄から「血族結婚」との医学上の見地から反対されて破談となったことが原因とされるが、先天的なアルコール障害だとも言われる。 

朝鮮火災海上を罷免される大正十二(一九二三)年前後から欠詠がちだった「層雲」への投句を再開、三十八歳であった。満州での再起も果たせず、肋膜炎悪化での入院し、妻馨にも愛想をつかされて別居となった。 

世俗を離れての作句活動を求め、京都左京区鹿ヶ谷の西田天香の一燈園、知恩院塔頭常称院、須磨寺大師堂、福井県小浜の常高寺と短期間で転々とする。最後は暖かな海の見える庵主を希望し、師井泉水の勧めで、「層雲」会員の資産家井上一二や西光寺住職杉本宥玄を頼って小豆島に渡る(実際は両人の事前の同意はなく、文字通り押しかけ)。 

流転の境遇が深まるにつれ、句境は高まり、殊に南郷庵での「独居無言」の七ヶ月間の作品は、自由律俳句の最高峰との評価が高い。但し、酒乱に加え、癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、「今一休」とも称されたが、唯一隣家の漁師の妻南堀シゲが親しく接してくれた。 

癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、ついに湿性咽喉カタルとなり、最期はシゲの看病のもと四月七日午後八時頃逝去。大阪から駆け付けた妻馨は、僅かに臨終に間に合わず、翌日、井泉水、妻、姉等で西光寺に埋葬された。戒名は「大空(たいくう)放哉居士」、唯一の句集として、同年六月井泉水編の『大空』が刊行され、平成六年に尾崎放哉記念館が開館した。 

 

「残っている書簡だけでも四二〇通を越え、長文の書簡の中で自らの俳句を語り、書簡文学をなしている。小豆島・南郷庵での暮しは、死に至るまで身を削り命懸けで作品の 

純度を高めた七ヶ月であった」(村上護)。 

 

「放哉は最後の二年間でその言葉が輝いた。それを可能にしたのは、俳句の最も伝統的な技法である取り合わせである。自由律俳句は反伝統的とみなされがちだが、放哉のイメージは極めて伝統的技法がもたらした」(坪内稔典)
 

「放哉と同じ結核患者だったという親密感から、放哉の孤独な息づかいが私を激しく動かした」(吉村昭)、「誰れだって生活が破綻すれば、放哉のように自暴自棄になっても不思議ではない。放哉の吐露する孤独は自覚しようがしまいが万人の胸底にある」(前田霧人)
等々の評価がある。
 

たった一人になり切って夕空 

こんなよい月を一人で見て寝る(須磨寺) 

犬よちぎれるほど尾をふつてくれる 

すばらしい乳房だ蚊が居る 

障子あけて置く海も暮れきる 

ふと顔を見合わせて妻と居つた 

入れものが無い両手で受ける 

死にもしないで風邪ひいてゐる 

咳をしても一人 

足のうら洗へば白くなる 

爪切つたゆびが十本ある 

海が少し見える小さい窓一つもつ 

何がたのしみに生きてると問はれて居る 

月夜の葦が折れとる 

墓のうらに廻る 

バケツ一杯の月光を汲み込んで置く 

 

放哉の句を読むと、これほどまで命を懸けて死の淵までに自身を追い込み、心身とも劣悪な状況に置いて、真摯に精進しなければ純化された「詩」は生まれないのかとの怖れすら感じられる。俳句=詩=宗教と放哉は言う。 

放哉と山頭火。自由律俳句の双璧であるふたりだが、旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、静の中に無常観と諧謔性そして洒脱味に裏打ちされた偏向的性格の放哉とは極めて対照的である。 

私の出会ったあの人

 アンドリュー・ロイド・ウェバー

 逃がした魚は大きかった!

 八 木 仁

 

 倫敦の松任谷氏から電話が入った。

「八木さんRAGに興味ある?」と言う。RAGとはアンドリュー・ロイドウェバーの会社である。私は言った。勿論興味あるけどRAGがどうしたの?」彼は「ALウェバーが新作の『サンセット大通り』で失敗をし大きな負債を抱えてしまったようでRAGの売却を考えているらしい」とのこと。

「そんな貴重な情報何処から入手?」「倫敦ミュージカル界の黒幕X氏からだから間違いない」との返答。私は「直ちに倫敦に飛ぶからRAGとの会談を設定するよう。松任谷&X両氏の同席は勿論必須」と指示した。

 平成十年の春、私は勇躍倫敦に乗込んだ。RAG社の受付で松任谷氏が手続きをしている間何気なく受付脇の応接室に目をやると、来客に対応していたらしい男性が一人私の方を振り返り立ち上がって近づいて来た。私の目の前に立ったその男こそ、倫敦ミュージカル界の王様、私が大ファンである歌手・サラブライトマンの元旦那様、ALウェバーその人であった!彼は私の手をしっかりと握り「ミスター八木、ようこそRAGへ。今日は残念にも会

議に参加出来ないけど、部下に充分話してあるから良い会談になるよう願っている」とのメッセージ。彼の手はその人柄を表すように暖かく優しい握手であった。場所を変えてのRAG№2との会議は詳細な状況説明がなされ私の予想を超える金額が提示された。帰りの飛行機で私は考えた。提示金額を調達する為にも、そして権利取得後その権利を最大限活かす為にも劇団四季の協力が必要不可欠であると。

 帰国早々、私は劇団四季主宰の浅利慶太氏に提案を持ちかけた。氏からソニーがやるなら四季は協力するとの内諾を得た。そこまで進めて私はSME(ソニー・ミュージック)の代表に話を上げた。代表はSME単独での買収は厳しいからソニー本体に金を出させよう。出井社長に話せとの指示。出井さんは事の経緯を聞いた後、ソフトのことは米の社長ハワード・ストリンガーに任せているから彼に相談しろと言う。丁度今米の№2が来日しているか

らと彼との会議を設定してくれた。後日私は米の№2に会って詳細を説明したがその後三か月待っても米から何の連絡も来ない。

 半年後、倫敦の松任谷氏から電話が入った。米のSMEディレクターという肩書のHストリンガーという男がRAGを訪ねて来たけど、どうなっているの?」とのこと。私は即座に「我々はこの件から手を引く。RAGにそう伝えて欲しい」と返事をした。米のHストリンガーは自己の功名心に逸って何と器の小さな男だろうと想った。ソニーにとっての大きなチャンスをブチ壊してくれた。私は今でももしあの時ソニーグループがRAGの権利を取得

していたらと夢想する。「オペラ座の怪人」「キャッツ」「エビータ」「スターライトエクスプレス」等の作品が世界中で上演される度にソニーにロイヤリティが入って来たのである。逃がした魚はとてつもなく大きかった。


 

私の出会ったあの人 


 ミシェル・ペトルチアーニ

 A列車は米大陸を疾駆した!

 八 木 仁

 

 あれはいつのことだったろうか?平成九or十年。しかとは覚えていない。私は、部下を伴ってニューヨークへ出張していた。米国の大手絵本出版社を訪ねる為である。以前にも書いたが、海外での商談はランチを食べ乍らのケースが多い。従って夜のスケジュールは空く。私は多くの場合ブロードウェイでミュージカル三昧のパターンで過ごしていた。しかしこの時は暫らく振

りにジャズクラブに行きたいと願った。実は今回の出張でNYに入る前、ロスアンジェルスに寄っていたのである。

LAのタクシーの中で実に興味深い話を聴いた。我々の会話で音楽関係者と察したのか、途中から運転手が強引に会話に割り込んで来た。曰く、ドライバーは仮の姿で本職はサックス奏者だと言う。以前友人から依頼されたことで一日中ジャズを演奏し続ける仕事があった。連れて行かれたのは驚く程の豪邸でベッドに黒人女性が寝ていたと言う。友人は兎に角彼女が息を引き取る迄何でも良いからジャズを演奏し続けて欲しいと依頼されたそうだ。その女性が布団を被っていたので顔は見えなかったそうだが、後で友人に尋ねたら、ナントあの《エラ・フィッツジェラルド》だったと言う。この話は、エラの大ファンだった私を大いに刺激ししてくれた。そして今回、NYに着いたら絶対にジャズクラブを訪れようと心に決めたのである。 

 NY到着後、早速ヴィレッジヴァンガードに席の予約を入れさせたところ、部下が「今日の出演は仏人のピアニストだそうですがOKですか?」と言う。

兎に角行ってみようということで時間ギリギリに店に飛び込んだ。店内は既に満席。案内された席は一番後ろ。我々の入店を待っていたかのようにマイクが「ムッシュ、ペトルチアーニ!」

の呼び込み。観客席は総立ちの大拍手。

ところが出て来た筈のアーティストの姿は何処にも見えない。会場中程のピアノに座った彼の姿が観客の隙間から僅かに覗けた。ナントナント分かり易く言えば“小人”である。足はPのペ

ダルに届かない。(彼は生来の骨肉不全症と言う障碍者)オープニング曲はデュークエリントンの名曲「A列車で行こう」。演奏が始まった途端、私はブッ飛んだ!力強いPタッチでA列車が間違いなく米大陸を疾駆したのである。

後日、A列車と言うのはマンハッタンの地下鉄A線のことで、アッパーウェストの百六丁目からセントラルパークの北端Ⅾエリントン通り迄走る線だと知った。(山本一力著「蒼天有眼」)

 

 米出張から帰り、私は報告会でヴィレッジヴァンガードで凄いピアニストに会って来たと興奮して話した。そうしたら洋楽の音楽出版課長が「社長彼ウチの契約アーティストですよ」と。

とんだ赤っ恥を描いた。「秋に来日してブルーノートに出ますけど行かれます?」「勿論絶対に行く」と応えた。半年後、ブルーノートで出会ったペトルチアーニは。彼の人柄を表すように、想った以上に大きな、そして暖かい手で握手をしてくれた。

私の出会ったあの人

 ブリット・オールクロフト

 魔女のおもてなし

 八 木 仁

 皆さんは「機関車トーマス」と言うキャラクターをご存じだろうか?
そう、あの顔の付いた蒸気機関車達が繰り広げる物語である。英国人のウォルバートオードリーと言う牧師が闘病中の息子を慰めようと創作した絵本のキャラクターなのである。
 私がグローバルライツと言う、ソニーグループの知的財産権を扱う会社の代表を務めていた時に、当時トーマス権利を保有していたブリットオールクロフト社がロンドン市場に上場することになり安定株主を求めているという情報が入って来た。私は迷わず同社の株式を7%取得する手配をした。これにより世界中のトーマス関連売上の7%分のロイヤリティがソニーに入って来ることになったのである。
 トーマスと言うのは不思議なキャラクターで、そもそも3~6才の男子に圧倒的人気があり、小学校に上がる頃から子供達の興味はヒーロー物に移って行く。但し未就学児童は順次入れ替わる訳であるから乗り物に興味を持つ子供達は不変であり、トーマスは毎年安定した売上をキープすることになる。
ソニーCPが権利を持っているキャラクターの中で、毎年「スヌーピー」に次ぐ位置をキープしている所以である。さて、数ケ月後私は株主としてブリットオールクロフト社を訪れた。ロンドンから電車で一時間弱、英国の南端ブライトンの港町にその会社は在った。
 迎えてくれたブリットオールクロフトさんと言う女社長は、白髪の毛をモシャモシャに伸ばしてまるで「白雪姫」に出てくる魔法使いのお婆さん。ソニーが株主になったことを喜び、ランチを設営してあるということで車で十五分程のマナーハウスに案内してくれた。
英のマナーハウスと言うのは、フランスのシャトーホテルやスペインのパラドールのように、昔の貴族の館や僧院を改装してホテル兼レストランとして営業している処を言う。ブライトンのマナーハウスは、自然豊かな緑に囲まれ美味しいジビエ料理をご馳走してくれる素敵な処であった。スッカリ気を良くした私は予て秘めていた懸案事項を魔女に相談してみた。曰く、今回ソニーは3Ⅾ映像会社のアイマックス社を買収して東京で3Ⅾ映画館を運営している。そこで既存の作品では無く新作のオリジナル映像を創りたいと想っているのだが何か良いアイディアは?と投げ掛けてみたのだ。魔女は暫く考えた後、「MrYAGI、閉園後の動物園って観てみたくない?動物達は何をして遊んでいると想う?」私は素晴らしいアイディアだと想った。一緒に創ろう!と魔女と握手をした。ところが動物のキャラクターで創り前に「ピングー」で試作してみようということで、ソニーのカメラで色々工夫してみたがどうも満足出来る立体映像にならない。私は泣く泣く計画を断念した。
数年後ディズニーが、動物ではなくおもちゃが家族の寝静まった後活躍する「トイストーリー」で大ヒット。魔女のアイディアは秀逸だったのに逃がした魚は大きかったと教えられたのである。


 

私が出会ったあの人 


 私の出会ったあの人

 酒井政利と原田知世

 生花白薔薇ドレスのポトリ

 八 木 仁

 

 世に「色男金と女はなかりけり」と申しますが、どうなんでしょうかねぇ?

いえね。これから話す男は、女性にモテたことは間違いございません。そして金も稼いでおりました。はい、彼の名は酒井政利と申します。ソニー、いえ業界を代表するプロデューサー(以下P)でした。なにせ《阿久悠筒美(京平)は無理でもせめてなりたや酒井政利》という川柳が囁かれていた位ですから、、、、、、、えっ?あなた、彼の実績を挙げろとおっしゃるんですか?旧コロンビア時代の実績を引っ提げてCBSソニー創業時に転籍。その後はフォーリーブス、南沙織、郷ひろみ、山口百恵、久保田早紀等の育成、また他社で売れなかった歌手を移籍させてのヒット作りで、朝丘雪路の「雨がやんだら」金井克子の「他人の関係」●内田あかりの「浮世絵の街」大信田礼子の「同棲時代」ジュディー・オングの「魅せられて」と真にSMEの黎明期を支えてくれた立役者なのですよ。

 時は流れるものでして、俗に十年一昔と申しますからもう四昔位になりますでしょうか。酒井Pから呼び出しを受けました。彼の部屋に行きますと、「いま角川から原田知世を移籍させようとしている。先方からは最後にソニーの宣伝・営業体制につき聴いた上で判断したい。誰か然るべき人に説明させて欲しいと要望された。その役を八木さんに頼みたいので角川を納得させてきて欲しい」とのこと。私が指定された日時に角川本社に伺うと、案内さ

れた大会議室に角川春樹社長を真ん中に幹部社員が三十名程顔を揃え、流石に私も足が竦む想いでしたよ。その後直ぐに原田の移籍が決まり、SMEの社長、営業部長、酒井P、私で、当時ソニーが経営していた銀座マキシムに角川春樹ご夫妻をお招きして懇親食事会を催しました。そりゃあなた、当事は「たかんな」を全く知りませんでしたので俳句の話はしませんでしたよ。

 原田知世は、移籍第一弾「天国にいちばん近い島」で映画・主題歌共にヒット存在感を示してくれました。翌昭和六十年、再度酒井Pに呼ばれた私は、知世がNHK紅白への出場が決まったので酒井Pが衣装をプレゼントしようと考えている。誰もが驚く衣装にしたいけど私に良いアイディアが無いか相談を受けたのです。私は即答で「生花の白薔薇で作ったドレスはどうでしょう!」と提案していました。酒井Pは即座にこの案を採用、全てを私に任せてくれたのです。実は私にはレリアン経営の「ローズギャラリー」と言う薔薇専門店をプロデュースする津志本貢氏という友人が居て、彼に依頼しようと考えたのです。十二月三十一日、白薔薇のドレスを纏った原田知世がNHKの大階段を下りて来た時、薔薇が一輪ポトリと落ちました。これにより、場内が一瞬ザワついたのを私は忘れることが出来ません。観客が知世の衣装が造花では無く生花であると悟った瞬間でした。昭和六十二年、原田知世は映画「私をスキーに連れてって」でアーティストとして大ブレイクを果たし、大輪を咲かせたのです。


 


 

私が出会ったあの人 

 伍代夏子 

 夏子はサラリと、あや子は真赤に 
 聖子はノリノリ、、、、、、、 

 八 木 仁 


 まあまあ八木さん、お久し振りでございます。良くお越し下さいました。 

さあ、お上がりになって下さい。 

いえいえ、それ程の豪邸ではございませんのよ。芸能界には〇〇御殿と言 われるような超大豪邸がいくつかございますものね。今日は生憎主人(杉良太郎)が出掛けておりまして、八木さんがお見えになると申しましたら、「 呉々も宜しくお伝えしてくれ」とのこ とでした。何ですか主人も以前大変お世話になったそうでございますね。これ主人の好物の上野『うさぎや』さんのどら焼きです。どうぞ召し上がってみて下さい。あら、八木さん糖尿病なのですか?それはいけませんね。失礼いたしました。ではこちらの麻布十番『豆源』さんのお煎餅でしたらようございますでしょ。 

 はいはい、私は相変わらず元気にいたしております。私がお世話になったのは八木さんがソニーの化粧品部門の責任者をなさっていらっしゃる時でしたね。私のあと藤あや子ちゃんもソニ―からデビューして、業界では《ソニ―の美人演歌》などと持て囃された時でした。 

そう言えば、八木さんが仕込んで下さったんですよね。「ビューティービジネス」と言う化粧品業界誌のインタビュー。あの雑誌社の社長、お名前何でしたしたっけ?そうそう、田中仁社長(元たかんな幹部)でした。面白い方でしたね。インタビュー時はそれ程でないのですが、それが終わって会食の時間になると俄然元気になられて、キワどいエッチなお話をなさるんですもの。それがリアルで微に入り細に渡り、、、、、、。はい、私は何とかサラリと切り 

返して凌ぎましたが、そうですか、あや子ちゃんは真っ赤な顔して俯いてい 

たのですね。えっ、あのエッチなお話に一番乗っていたのは聖子(松田聖子)ちゃんんだったんですか?「それで、 それで?、、、、」と先を促していたと、、、、、、、 

彼女やるもんですねぇ。 

まあヤダ、私が杉の何処に惚れたかですって?そんな野暮なことお聴きにならないで下さいな。 はい、その通りです。杉と私の婚約発表の時、雛壇の机の下で私達は確か に手を繋ぎ合っておりました。通常の婚約会見の時より二人の席が近かったから、お気づきになられたのですか? サスガ八木さん、鋭いですね。 杉と相談して“八木さんはいずれソニーの中心になられる方“だからということで結婚式にもご招待をさせて頂きました。でも当日欠席でしたよね。 いえいえ、決して責めている訳ではありません。大切なご用事があったのでしたら仕方がありませんもの。でも杉も私もとっても残念だったのですよ。 あらあらあら八木さん、もうお帰りです か?折角お越し頂いたのに大したおもてなしもできず申し訳ありませんでした。はいはい、主人には良く伝えておきます。今度は是非、杉も居る時に遊びにいらして下さいね。どうかお気をつけてお帰り下さい。ご機嫌よう。 


 

私が出会ったあの人


 杉良太郎

 男気溢れる気遣いの人

 八 木 仁

 
  昭和52年頃だったと想う。SMEの宣伝部長から電話をもらった。「杉良太郎さんが鈴鹿の女性ドライバーを応援する為、レースの賞品に車を提供したいと言っている。音楽では利用しようが無いので、化粧品の方で生かして欲しい。費用はこちらで負担する」とのこと。私が化粧品部門の責任者をしている時であった。聞けば日本の女性レースドライバーは恵まれない境遇に置かれていて、車の購入、メンテ、レース場への運搬等・・・全て自己負担だと言う。それを知った杉さんが男気を発揮し支援を申し出たとのこと。私は早速新商品の《アパッチメイク》のプロモーションに活用することにした。アパッチメイクとは、プロ野球選手が日差し除けの為目の下に黒いアイシャドーを入れるアレである。私はカラフルなアイシャドーを数種発売して、夏の海辺の若者達のファッションに定着させようとアパッチメイクと名付け仕掛けたのである。鈴鹿のレース場で水着を着た女性モデルに、アパッチメィクを施しデモンストレーションをさせた次第。イベント最終日、優勝者に賞品の車贈呈する為来ていた杉さんが顔中にアパッチメイクを塗りたくって舞台に登場した時、観客のみならず私も杉さんの男気に心から驚かされた。

 杉良太郎は毎年明治座で公演を行っていた。前半は杉さん主役の時代劇。後半はタキシードに着替え、ヒット曲を中心にした歌謡ショーの構成である。杉さんの時代劇はほぼ内容が決まっている。貧しい下級武士の杉さんが、美しい若妻と共に慎ましく暮らしている。その若妻を悪殿が見初め、夫である杉さんに次々と難題を押しつける。耐えに耐えていた杉さんが、若妻を攫われるに及んで遂に堪忍袋の緒を切って単身城に乗り込んで行くというストーリーだ。最後の戦いの場面で力尽きた杉さんが切腹させられるシーンでは、何回も見て展開を熟知している私ですら毎回想わず涙させられたものである。
後半の歌謡ショーでは一転して颯爽とタキシード姿で「すきま風」を中心としたヒット曲の数々を披露する。会場は「杉サマー‼杉サマー‼」のおば様達の歓声で溢れる。ショーの中程、杉様はゴンドラに乗って会場を一周し上からサイン入り手拭をばら撒く。私が行っている時は同行しているお客に届くようピンポイントで投げてくれる。
舞台終了後楽屋を訪ねると、沢山届いた楽屋花の中で私が贈った花が一番前に置かれている。鏡台にはソニーが出している香水「ジャンルイシェレル」がちゃんと置かれている。杉良太郎は《男気溢れる気遣いの人》なのである。
 
 ソニーの演歌は、チョーヨンピルの「釜山港へ帰れ」・渥美二郎の「夢追い酒」・内藤九段(将棋)の「おゆき」・杉良太郎の「すきま風」とヒットしたが何れも単発で演歌路線を築くという所までは行かなかった。昭和六二年 伍代夏子の「戻り川」のヒット、遅れること二年藤あや子の「おんな」のヒットで、漸く《ソニーの美人演歌路線》と讃えられるようになったのである。 


ふきのとうと太田裕美

 HIT ONCE MORE!

 八 木 仁 

 

 宇多田の後、一気に時代を遡らせて頂こう。タイムスリップしてここは昭和四十九年十月、札幌市内を走るタクシーの中、私はSTVホールに向かっていた。CS(CBSソニー)からデビューすることになったフォークデュオ「ふきのとう」のデビューコンサート立会いの日のことである。会場が見える所迄来た時、私は想わず“ヤッタァ“と叫んでいた。長蛇の列がSTVホールを囲んでいたのである。
ふきのとうは前年ヤマハ主催のコンテストで優秀賞を受賞したことによって、今年デビューが決まったグループである。
北海道出身の山木君と細坪君のコンビは、デビュー曲の「白い冬」を始め数々のヒット曲を連発。昭和四十~五十年代にかけてフォーク界を牽引して行くことになる。彼等の音楽の世界を表すなら繊細さと優しさで、私は彼等の大ファンであった。自らコンサート会場へ最も足繫く通ったアーティストである。昭和五十七年に札幌厚生年金会館で行ったエバーラストコンサートが最後のライブとなり二人はコンビを解消。その後は各々独自の音楽活動を続けている。ふきのとうの復活を願っているのは私一人ではない筈である。
 ふきのとうと同年、CSからもう一人期待の新人が誕生した。十九歳の「太田裕美」である。デビュー曲の「雨だれ」は美しい曲であった。当時宣伝部で地方ラジオ局を担当していた私は、彼女のデビューに際し北海道から長崎迄、ふきのとう事務所の社長を誘って二人で各地のラジオ局を回り、二組の歌手の素晴らしさをアピールして歩いた。その後の太田裕美の活躍振りは皆様ご承知の通りである。
昭和五十一年私の結婚式の際にはゲストとして登場しピアノの弾き語りで「雨だれ」を披露してくれた。律儀な彼女とはその後長い間年賀状のやり取りが続いている。

一昨年私が句集「絆」を刊行した際、彼女にも贈呈した処お礼の言葉と共に“作詞の勉強になります”との手紙が届いた。昨春以来乳癌との闘病で頑張っているようだが、一日も早い復帰を心から祈るばかりである。
 
 さて余談を一つ。昭和五十年、私は札幌所長に任じられた。その折営業所のキャッチフレーズを《ヒット・ワンスモア》と定めた。北海道の市場は全国の五%のマーケットである。どんなに頑張っても五%の貢献度であるなら、北海道でヒットの芽を作りそれを全国に拡大させれば五%以上の貢献度に繋がると考えた次第。背景には道民の新し物好きな気質があった。明治以降入植して来た人達なので古い風習に捕らわれる要は無かったのである。又ラジ
オ局二局で全道をカバーしプロモーションがやり易かったのが第二の理由であった。こうして私の在任中北海道から生み出したヒット曲は、ふきのとう「風来坊」他数曲、紙風船「冬が来る前に」、渡辺真知子「迷い道」、天地真理「想い出のセレナーデ」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」・・・
多くのヒットの芽を育てることが出来たのである。



 宇多田ヒカル

 新歌姫の誕生と母の憂鬱

八 木 仁 


 平成十年秋、ソニーミュージックの子会社であるグローバルライツ(GR)の創業社長を務めていた私にO君が一本のテープを持って来た。「これをお聴きになってみて下さい」と言う。
早速聴いてみた。テープには《宇多田ヒカル|オートマティック》と記してある。テープが終わった時に、私は「ナンじゃ、こりゃ!」と叫んで居た。
「宇多田って誰?この音源の入手先は?」と矢継ぎ早の質問。「宇多田は十六歳。以前東芝から一枚出していますが今回やらないとのことでウチに持ち込まれました。藤圭子の娘さんですよ」とのこと。私は「絶対ウチでやろう!彼女は音楽業界を変える程の才能の持主だよ。プロデューサーは誰を考える?」O君は「XジャパンをデビューさせたYさんはどうです」の返答。私は彼に任せて経過を見守ることにした。

一か月待っても報告が無い。O君を呼んで状況を確認すると、Yさんは忙しいようで机の上にテープが置き放しとのこと。私は直ちにテープを引き上げさせ善後策を検討することにした。O君は「実はその後GRが出版を引受けてくれるのであれば、東芝でCD発売をやらせて欲しいと言って来たのですがどうしましょう」と言う。私は即決でOKを出した。O君は「我々はソニーの子会社なのに東芝と組んでしまって大丈夫ですか?」と念を押す。「問題なし!こうゆうこともあろうかとGRを創業させる時頭にソニーを付けなかったんだ。大賀さんからソニーの子会社で頭のソニーを断ったのはお前だけだと言われたけどね。折角東芝と組むんだから東芝のヒット作りを勉強させてもらおうじゃないか。それともう一つ、デビュー曲はオートマティック
で良いと想うけど、後に収録されていたファーストラブが素晴らしい曲だからこれを三曲目として発売するよう言っておいてくれ。業界には昔から良いバラードが仕上がったら三曲目に発売
するとその歌手は大ブレクするというジンクスがあるからね、、、、、、」
 かくして、CD発売東芝EMI、音楽出版GRという業界初の組合わせで宇多田ヒカルは平成十年十二月にデビュー。「オートマティック」がいきなりWミリオンの大ヒット。十六歳のNEW歌姫誕生である。三か月後第三弾として発売された「ファーストラブ」は未曽有の売上を続け、特にアルバムの売上は止まる処を知らず遂に千二百万枚を数え、日本歌手の単独CDとしては史上最高記録を達成したのである。宇多田の大ブレイクにより、私に新な任務が発生することになった。本人にはマネージャーとして父親が付き事務所を東芝内に設置。宇多田が売れれば売れる程二人は日本中を飛び回ることになる。反面母親の藤圭子さんは自宅に一人取り残されることになる。ご主人の事務所がある東芝には行き辛いので必然的に不満を持っていく場がGRになる。圭子さんがGRを訪れる度にアレコレと続く愚痴をお聴きし、お慰めし安らかな気持ちでお帰り頂くの
が、私の重要な任務となったのである。



 一気!一気!一気!

 森山良子

 八 木 仁

 松田聖子の回で書いたように、私は昭和五七年名古屋営業所に着任した。
北陸を含む名古屋は、以前担当した北海道とは全く異るマーケットであった。
北海道はシングル盤が良く売れたのでヒットが作り易かったのだが、名古屋
は真逆でシングルの売上は低くむしろアルバムの売上比率が高い。中部の人の気質は新しいものには飛びつかず世間が評価したものを後追いで受け入れるという由。どうやら京都と東海・関東の間で永年争いに身を委ねて来た中部人独得の気質であるらしい。
一説には当時シングル盤は一枚四百円、一方アルバムは十二~十五曲入って二千円。
一曲当たりどちらが得かという経済観念だと主張する人も居た。何れにしろアルバム市場であったのは間違いない。私が着任した五七年、アルバムの良く売れるアーティストがCBSソニーに移籍して来た。森山良子である。
彼女は昭和二三年生まれ。父はジャズトランペッターの森山久、母はジャズシンガーの浅田陽子。良子さんの音楽的才能は天性のものなのである。昭和四二年「この広い野原いっい」でデビュー、その後の「禁じられた恋」で大ブレイク。米のジョーンバエズの来日公演にゲスト出演しデュエットしたことで《和製ジョーンバエズ》と称えられた。
その透明感溢れる歌声と抜群の歌唱力で名実共に日本ののトップシンガーと認められたのである。
 私は当時森山良子が所属していた事務所MSとは、五輪真弓も同じ事務所だったご縁で、森山の移籍は大歓迎であった。彼女がソニーに移籍して最初に出したアルバムは「セフィニ~愛の幕切れ」である。タイトル曲はフジTⅤで放送されたドラマ『大奥』の主題歌となりヒットした。
私は森山の歌は時代劇に合わないと想ったのだが、放映が始まるとそんなことは無く時代劇
の後の森山の歌は何とも切なくて良いのであった。米の作曲家ゴードン・ジェンキンスが作曲をし演奏もしているのでおしゃれなアルバムに仕上がっており、今も私の愛聴盤の一つである。
 森山良子が移籍記念のコンサートを名古屋で行った際、公演終了後営業所全員参加で懇親&慰労会を開催した。
宴も酣の頃、やおら良子さんが立ち上がり、「では只今より一気飲み会に入りマァス!最初は八木所長!」とのご指名。仕方なく立ち上がった私に水割のグラスが持たされる。良子さんの「サア行ききますよ!一気!一気!」の掛け声と手拍子に合わせ所員達も一気!一気!の大合唱。
どうしようもなく
アルコールが苦手な私も目を瞑って一息に流し込んだものである。私の後は課長、次は係長と全員良子さんの洗礼を受けることになった次第。何とも楽しくて苦しい想い出であった。
 私が自ら望んでコンサートに出向いた歌手は、前出のふきのとう、五輪真弓に続いて森山良子が三番目である。彼女のコンサートのエンディングはいつもチャップリンの「エターナリー」と決まっている。
彼女は手巻オルゴールの伴奏で《♪いつまでもあなたにこの愛をあげましょう》と歌う。